オギノート

「オギノート」は、シンプルなモノ・コトを中心に、フリーのデザイナーである小木が買ったものや考えたことを発信するWebメディアです。 小木が日々取り組んでいるデザインについて、PCやその周辺ガジェットについて、最近読んだ面白い本について、小木が目指していきたいミニマルなファッションと暮らしについてなど、様々なジャンルの記事を独特の視点と語り口で綴っています。

小木の学生物語①「大学受験と青春時代」

本ブログのトップページに「オギノートについて」というメニューがあり、ここに僕の自己紹介やこれまでの経歴などをまとめてあります。

大学入学後、いろんなものに興味を持って寄り道を繰り返し、今現在に至るまでを簡単にまとめたものですが、これについて関心を持ってくださる方が結構います。

特殊といえば確かにそうかもしれません。 ちょっと変なルートを通って今を生きている僕の数年間を語ることで、誰かが興味を持ってくれる。

これはとても嬉しいことです。

そこで、今回からシリーズ『小木の学生物語』として僕のこれまでの歩み、その中でもかなり自由に動き回っていた大学時代を中心に僕なりにまとめてみたいと思います。 その中で、「学ぶ」ということについても改めて考えてみたいと思います。

「変な奴がいるもんだな〜。」、「人生のヒントになった!」などどんな意見が出てくるか分かりませんが、各々自由に感じていただければと思います。

 

幼少期〜中学校くらい

ものすごく小さい頃について話しても面白くはないと思うし、あまり覚えていないので簡単にまとめてしまいますが、僕はいわゆる「赤ちゃん言葉」をほとんど喋らなかったそうです。

これについては「オギノートについて」にも少し書いていますが、母親が車を指差して「あれは、”ぶーぶー”っていうのよ。」と教えてくれることってあると思います。 可愛げのある子供であれば”ぶーぶー”とマネして親を喜ばせそうなものです。

しかし、僕はその母親に対し、「車でしょ」と、そう言ったそうです。

ぜんぜん可愛くねぇ

どこかですでに「車」という単語を覚えていたようです。 幼少期の僕は「ぶーぶー」などという低レベルな言語を好まなかったのかもしれません。

昔の僕はこんな感じで、言葉遣いについては可愛げのない男の子だったそうです。

その後はなんやかんやあって、中学校に入りました。

ハイパーはしょりマウンテン(*1)ですが、中学以前のことはどうでも良い事ばかりなので、省略しましょう。

(*1)ハイパーはしょりマウンテン・・・話の端折り方が程度を超えて激しいこと、またその様子。「すまん、ちょっとその話はハイパーはしょりマウンテンじゃないか?」【ogipediaより】

中学校では生徒会長をやっていました。

全校集会的なところでご挨拶をしたり、入学式・卒業式でメッセージを読み上げたり、全校生徒の前に立って何かをすることが多かったです。

もともと生徒会をやりたいと思っていたわけではなく、先生に「君は向いてると思うんだよねぇ」とおだてられ、調子に乗って立候補しました。 お陰様で、中学校では、モテました。

...中学校では。

中学時代は1年生の時からずっと塾に通っていて、勉強は良くできる方でした。 僕の前に優秀な2人がいたので、校内のテストではいつも3位くらいでした。

部活のテニスでは一応、一番のポジションでした。

こんな感じで、中学時代は生徒会長で勉強ができてスポーツもできる、そして結構モテるという完璧超人でした。

僕がここまで過去の自分を持ち上げてナルシズムを発揮するのは、これ以降、ここまで何もかもが自分の思い通りになることはなかったからです。

正直、この時は「自分はスゴイ」と思っていたし、高校も大学も、全部思い通りになると思っていました。

 

実力を痛感した高校時代

中学時代の栄光が残っていたので、高校は第1志望校に合格することができました。 僕は千葉県出身なのですが、県内でもかなり優秀な公立校です。

しかし、当然ですが周りは他の中学校のトップクラスの生徒。 校内最初のテストで学年250人の真ん中くらいの順位になるという、当時の僕からすればあり得ないスコアを叩き出してしまいました。

この時、子供ながらに自分の「井の中の蛙」状態を痛感しました。 狭い中学校という世界では輝いていた僕も、高校という少し広い世界に入ってしまえば大したことはない。 これには結構ショックを受けました。

その後、例のごとく生徒会に入ったり、引き続きテニス部に入ったりして頑張っていましたが、なんだかどれも上手くいっていない感じがしていました。

 

特に、部活に関しては全く上手くいってませんでした。 当時から僕は努力することに関しては人一倍長けていたので、朝早く家を出て5時くらいからテニスコートで一人で練習していました。 他のメンバーが来る前には片付けて、テニスコートも綺麗な状態にして、何食わぬ顔で部室で寝ている。

そんなふうに毎日頑張っていましたが、なぜか少しも上達している気がせず、気がつけば部内では一番弱い、そんな存在になっていました。

一応レギュラーでしたが、それは同学年が5人しかいないから。 大会に出るときのフルメンバーは6人なので同学年の5人は確実に試合に出られるんですよね。 そんな中で順位としては僕が一番下なので、後輩とダブルスを組んで大会に出場していました。

当時は毎日のように屈辱的な思いをしていました。 練習して早く強くなりたいという思いと、これ以上部内で一番弱い自分を見せたくないという思いのジレンマに陥っていました。

ちょっとここで、僕の高校時代の恋愛話をします。 僕は1年生の後半くらいから女子テニス部の先輩のことが好きでした。

振り向いて欲しいからこそ毎日頑張って練習していたわけです。

今思えば、ちょっと甘酸っぱい良い話ですが、当時の僕は毎日練習でダサいところを見られていたので、本当にキツかったです。

ちなみに、この先輩が部活を引退する少し前に、僕は先輩を教室に呼び出して告白しました。 その時はただ「ありがとう。」と言われて、お互い別々で家に帰りました。

ドキドキしながら帰って携帯を見たら「先輩と後輩のままでいよう。」というメールが来ていました。

スーパー時間差タクティクス(*2)を行使されました。

(*2)スーパー時間差タクティクス・・・相手と自分にとってバツが悪い、もしくは片方にとって気まずい内容を時間差を利用して伝えることで、穏便に済ませようとする戦略のこと。興味のない異性からの食事の誘い等を回避する時に多く用いられる。【ogipediaより】

 

意外と楽しかった受験勉強時代

高校3年の夏には最後の大会を機に部活を引退し、本格的な受験勉強が始まりました。 僕が通っていた塾には生徒全員が入れるような大きな自習室があったのですが、そこで毎日朝から晩まで勉強していました。

受験や将来のことについて思い悩むことは多かったですが、塾には同じ高校、違う高校の友達がたくさんいたので毎日楽しく過ごせていました。 一緒にファミマに行ったり、一緒にセブンイレブンに行ったり、一緒にデイリーヤマザキに行ったりしていました。

受験勉強自体は3年生になる前から始めていました。 僕は小学生くらいからぼんやりと「地球の環境問題を解決したい」と思っていて、それを実現するための勉強ができる大学に入りたいと思いました。

2年生の後半くらいに、いろんな大学のパンフレットを取り寄せて眺めている時に、”変人の巣窟”こと、「慶應大学湘南藤沢キャンパス」通称SFCの存在を知りました。

今では、ちょっと変わっている人や、やたら意識高い人などがSFCに行きたがっているし、そのカリキュラムなどが注目されているので有名になっていますが、僕の周りでSFCを知っている人はごく少数。

志望校の話をすると周りが冷めてしまうことも多くありましたが、3年生になる頃には「僕はSFCに行く」という強い意志を持っていたので、自信を持ってSFCの名前を口にしていました。

このSFC、受験に必要な教科自体も変わっていて、「数学」、「英語」、「数学・英語」のいずれかから1つを選択し、それプラス「小論文」の合計2科目。 どちらも100点計算で200点満点なので、通常の受験勉強のやり方ではなく特定の教科に対して一点集中で勉強しなければいけません。

SFCAO入試で毎年多くの人を取るのですが、高校時代をテニスやら勉強やら、女子の先輩やらに捧げた僕にAO入試はキツかったので、一般入試で受けることにしました。

受験の方式が他の人と違っていたので、塾の友達と一緒に勉強しつつ、自分一人でなんとかしなければならないことが多かったこの時期。 意外と僕は楽しんでいました。

この頃からなんとなく、マイナーな方に進むとか、他の人と違うルートで進むということが好きだったので、この勉強の仕方は僕に合っていたのかもしれません。

ただ、SFCの受験に集中しつつも、滑り止めは必須。 ということで、明治大学を第2志望にしました。

「農学」という環境問題を学べそうな学部があったこと、高校時代に一番得意だった教科「生物」が受験で使えること、などから第2希望に設定しました。

受験科目が限定された後は、高校の授業中にずっと受験勉強をしていました。 なので、受験で使わない教科は赤点取りまくりでした。

小学校時代はいつも100点満点。 中学校でもいつも90点台だった僕はどこに行ったのでしょうか?

ちなみに高校時代の最低得点は8点。 一応本気でやったのですが、「数学C」などという「そんな授業あったっけ?」レベルで全く聞いてなかった科目だったので全然ダメでした。

 

受験結果発表、第1志望校は?

必死に勉強して、寝る間も惜しんで第1志望校のSFCを目指しました。 小論文の対策として、受験当日まで新聞を読んで時事ネタをチェックしたり、本を読んだりして備えました。

そして、当日試験を受け、冬の帰り道で空を見上げて思いました。

「あまりに壁が高かった」と。

試験が終わった瞬間に、これまでの努力ではSFCには入れない、というより、僕はSFCに求められていない、そんな風に感じました。

問題が解けないとか、小論文が難しいということではなく、もっと「まともじゃない」人になっていなければならなかった。 もっと、自分らしくいなければならなかった。 そう思いました。

そうでなければSFCには入れない、僕はそう気づきました。

今となっては、もうちょい勉強してたら入れたかも、と安易に思ってしまいますが、当時の僕としては、勉強云々ではなく考え方や視点を変えなければ突破できないと感じました。 それほどまでに受験が特殊だったのです。

もちろん、過去問でその傾向は知っていたし、出題パターンも研究していたけどそう言ったレベルではなく、日々いろんなことに挑戦していなければ解けないような問題ばかりだったのです。

 

結果は、やはり不合格。 浪人をするつもりはなかったので、第2希望の明治大学に入学することになりました。

こうなっては仕方ありません。 気持ちを切り替えて明治大学でどんなことに挑戦しようかと前向きに考えました。

SFCのことを忘れようとネットニュースを見ていたら、少し前にジャニーズの「なんたら君」とかいう人がSFCAO入試で合格したという記事を見ました。

ウルトラ妬みギャラクシー(*3)でしたが、ジャニーさんの力の前では全ては無意味。 僕もジャニーズを目指すべきだったかもしれませんね。

(*3)ウルトラ妬みギャラクシー・・・憧れの対象、自分より優れている、上位にいる者に対して銀河系の大きさに匹敵するほどの嫉妬を感じること。下位互換として、「ゴールデン嫉妬フィーリング」「アツアツ焼きもちバーニング」がある。【ogipediaより】

 

 

 

次回記事に続く。