オギノート

「オギノート」は、シンプルなモノ・コトを中心に、フリーのデザイナーである小木が買ったものや考えたことを発信するWebメディアです。 小木が日々取り組んでいるデザインについて、PCやその周辺ガジェットについて、最近読んだ面白い本について、小木が目指していきたいミニマルなファッションと暮らしについてなど、様々なジャンルの記事を独特の視点と語り口で綴っています。

【考えたコト】アートとデザインの違い

例えば、あなたが美術館に行って絵画を見たなら、あなたは間違いなくそれを「アート」と呼ぶだろう。例えば、あなたがとても美しいWebサイトを見たなら、あなたは間違いなくそれを「デザイン」と呼ぶだろう。では、ある日入ったカフェで、見たこともない形のグラスが出てきたら、それはアートだろうか、それともデザインだろうか?奇抜な形の机や椅子は?街を歩く若者の奇抜な髪型は?
私たちはそれがアートであるか、デザインであるかをそう簡単には答えられない。それもそのはずだ。両者の間に、明確な堺が無いからだ。もちろん、体感的に双方の違いを感じている人は多いだろう。アートと聞けば美術館にあるような絵画や彫刻をイメージするように、それは著名な画家や芸術家が作成し、日常と懸け離れたところに存在するものだと考える。デザインと聞けばWebサイトや服・鞄をイメージするように、それはデザイナーと呼ばれる職業の人たちが作成し、日常の中に溶け込んでいるものだと考える。その認識は決して間違っていない。先述のように、両者の間に明確な境界は無いから、自分が思う定義でそれぞれを認識すれば良い。
しかし、ここで僕は一つの疑問を提起する。果たして、必ずしも「アート」は美術館などの日常と懸け離れたところにのみ存在しているのだろうか?そして、「デザイン」は日常の中に存在しているもののみを指すのだろうか?

奇妙な椅子の問題

では、ここで日常の中に溶け込んだアートの問題(僕が勝手に考えたものだ)を持ち出してみよう。
あなたが入ったカフェに、とても奇妙な形をした椅子がたくさんあるとする。椅子であると認識できるわけだからかろうじて座る部分は残っているのだが、椅子が持つ4本の脚は複雑に絡み合い、美しい模様を作り出している。さらに、重要な座る部分はなぜか水平ではなく、微妙に傾いていて実際に座れるか定かでは無い。ただし、それは平然とホテルのロビーに何十脚も配置されている。
これは、アートか、それともデザインか?
置かれている場所はなんの変哲も無いカフェ、日常的に使うような店だ。そうだったとしても、これをアートと捉えることは可能だろう。同時にデザインだと認識することも可能だ。結局のところ、これらを定義することは非常に難しく、不可能と言っても良いくらいなのだが、この椅子がアートかデザインかという問題に対して僕が考える定義で答えを述べるのであれば、「場合による」となる。
意地悪問題のようになってしまったことを許していただきたいのだが、結局これは作者の考え、捉え方によってどちらにもなり得るということなのである。私たちがどのように認識するか、ではなく、作者がどのように考えているか、である。
前置きが長くなったが、ここで僕が考えているアートとデザインの定義を述べよう。それは、端的に表現するのであれば、
「アートは主観的で目的が無いもの、デザインは客観的で目的を持つもの」
となる。では、この定義が意味するところについて述べていこう。

アートは主観的

まず、「アートは主観的で目的が無いもの」についてだが、これはアートは作者の内側にある感情や考えをあらゆる方法で表現したものであり、原則としてそれを客観的に捉えて評価することは無い、ということを表している。例えばこういう状況を考えてみよう。あるアーティストが自分の心の中にあるモヤモヤとした感情を、絵画という媒体で表現した。それは白いキャンバスの上に黒い絵の具が何重にも塗り重ねられたものだった。この時、アーティストは完成した作品を見て、見た者に自分のモヤモヤとした感情がこの絵を通して的確に伝わるか、伝わりにくいのであればこの黒く塗られた絵がドロドロとした液体を表現しているということを明示すべきか、などということは考えない。原則としてアーティストはその作品を主観的に作成する。そして、表現したいものはあれど、それが的確に伝わることに主眼を置かない。アーティストは常に「表現者」であり、自分たちを表現することを重要視する。この考えを基にすれば、そもそもアートを見て、それが何であるか、何を表現しているかということを考察するのは少しズレている。その行為はアートを楽しむ上で重要ではあるが、最善の方法では無い。

デザインは客観的

「デザインは客観的で目的を持つもの」についてだが、これはデザインは作者が表現したいと思ったものを具現化したものではなく「表現すべきもの」を形にしたもの、ということを表している。この差は小さいようでかなり大きい。重要なのはデザイナーの意志(本当に深い部分にある根源的な思い)を表現したものでは無いということだ。現代においてデザイナーの多くは、企業や個人からデザインの案件を受けて仕事をしているため、本来デザイナーはその企業が伝えたいことを的確に形にすることを求められる。多少そこに、それぞれのデザイナーの工夫が加わるが、本質的に表現すべきは自分の意志ではなくクライアントの意志だ。そしてその意志とは、決してアーティスティックなものではなく、マーケティングを目的としたものである。一方、自分でブランドを持つデザイナーも数多くいる。そういったデザイナーは限りなくアーティストに近いデザイナーであると言える。そこから生まれる商品には少なからずデザイナーの本当に表現したい意志が含まれているからだ。ただし、この場合もデザイナーはその商品に対して「売る」という明確な目的を持っているし、そのデザインを客観的に評価することを求められるので「アート」ではなく「デザイン」であると定義される。

アートとデザインに「恋」をする

この定義は決して普遍的なものではなく、僕がアートに触れる中で考えた定義でしか無い。よって、アートとデザインの違いについては様々な意見が存在していると考えられる。さらに、僕が考える定義で全ての「美しいもの」を、アートとデザインのどちらかに振り分けられるわけではない。もしかしたら、世界にはアートとデザインの要素をちょうど半分ずつ含んだ、判断不可能な作品が存在するかもしれない。
本記事において僕は、決して自分の定義をあなたに押し付けたいわけではない。目的は他にある。もし、僕が考える定義に共感してくれたのなら、あなたは今日から、何か「美しいもの」を見るたびに、その作者の頭の中を知ろうと努力するはずだ。それがどのようにして作られたのか。作者はアーティストであるのか、それともデザイナーであるのか。それがそこに存在している理由は何か、そもそも理由などありはしないのか。その状況こそが本記事を通して僕が実現したい状況であり、作り手に思いを馳せる「恋」のような素晴らしい状況である。
あなたがこれから日常の中にある様々なものに「恋」をすることを願ってやまない。