オギノート

「オギノート」は、シンプルなモノ・コトを中心に、フリーのデザイナーである小木が買ったものや考えたことを発信するWebメディアです。 小木が日々取り組んでいるデザインについて、PCやその周辺ガジェットについて、最近読んだ面白い本について、小木が目指していきたいミニマルなファッションと暮らしについてなど、様々なジャンルの記事を独特の視点と語り口で綴っています。

【考えたコト】選択論

「あの時、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」

「あの時、もっと良い選択肢があったんじゃないのか。」

僕たちは考える。

いつだて僕たちはそんな風に過去の選択を悔やんだり、それに疑問を感じたりする。

それはすごく大事なことだ。 僕たちはそうすることで、次の選択をより良くすることができるし、過去の失敗を「経験値」として記憶することができる。

だが、あなたがそうやって過去の選択を悔やんだ時、最後に何が残っただろうか。

もっと良い解決策が見つかっただろうか?

仮に見つかったとして、それは現在の自分の糧になれど、決してあなたの過去を変えることにはなりはしない。

そんなことを考えても、僕たちの心に最後に残るのは、 堪え難い後悔と、冷たい虚無感だけだ。

僕は決して、過去を振り返るのはやめよう! と、提案したいわけではない。

ただ、もし、今あなたが過去の選択に縛られているのならば、いかにそれが無意味なことであるかを知っておく必要がある。

 

僕たちは、朝起きてから寝るまで、途方もない数の選択を迫られている。

朝起きた瞬間にあらゆる選択肢があなたの前に現れ、数秒単位での選択を迫る。

朝食には、シリアルを食べるか、それともベーコンと卵を食べるか? 今日はどんな服を着て行こうか? 朝はどんなニュースを見てから出ようか?

外に出れば、それ以上に多くの選択が、道や学校、オフィスやカフェに転がっている。

僕たちはその数え切れないほどの選択に、晒され、打ちひしがれて生きるしかない。

なぜなら、選択することこそが生きるということであり、 あらゆる選択を放棄することは、死という形をもって実現するほかないからだ。 人生は選択の連続で成り立っているからだ。

僕たちは、選んでいる。 ありとあらゆるものを。

そして大抵、多くの選択は僕たちの無意識によって行われる。

全てを意識的に選択して生きたならば、僕たちの頭はたちまち限界を迎えてしまうだろう。

 

毎日、幾つもの選択をしているからといって、あなたが後悔するような重大な選択と、朝食をシリアルにするか、といった選択では明らかにその重要性が異なる。

シリアルを食べようが、一手間かけてベーコンと卵を調理しようが、どうでも良いことだ。

それが一体僕たちの人生に何をもたらすというのか?

それに対し、僕たちが後悔するような重大な選択は、その結果次第で僕たちの人生を大きく変え得る。

だからこそ、慎重に考えるべきだし、ベストな選択をするべきだ。

これには大いに賛成。 反論の余地はないのだが、

もし、どんな選択もその重要性は同じで、結局のところ「どうでも良い」と考えることはできないだろうか。

 

僕たちが縛られ、いつまでも後悔し続ける、過去の選択。

あの時、こうしていれば。

もっと良い選択肢があったはずなのに。

仮に選択肢が2つあったとして、自分が選んだ1つの選択肢によって、僕たちがひどく後悔することになったとしよう。

では、もう一方の選択肢を選べば、僕たちは幸せだったのだろうか?

思いつくことのできた選択肢が1つだけで、それ以外にもっと良い選択肢が無数にあったような気がする。 そんな時でも、 その時見えていなかった無数の選択肢は、僕たちを幸せにしただろうか?

運命論のようなことを説きたいわけではない。 もし、運命というものを全面的に肯定するならば、どんな選択をしても、僕たちは後悔していたし、そもそもその選択肢を選ぶことは運命によって決定されていた、 と、そんな意見になるだろうが、これが正しいとは思わない。

ここまで自分の意見を述べてきておいて、こんな結論に帰着することを先に謝っておきたい。

だが、これが事実。

結局のところ、「わからない」のだ。

 

その時の選択が間違っていたのか、他の選択をすればどうなっていたのか、僕たちには分からない。

それが分かる超能力者でもいれば、話は別だが、僕たちにその真偽を確かめる術はない。

これから立ちはだかる選択についても、同じことが言える。

何も、分からない。

少しだけ、予想することはできるし、過去の経験から判断して今実現できる最善の選択をすることはできるだろう。

だが、「最善」の選択が常に「最高」の選択だとは限らない。

僕たちは、せいぜい、その選択の先にある結末を憂いたり、かすかに期待することしかできないのだ。

僕たちにはその程度の力しかないのだから。

 

僕たちにできることは、「悔いのない選択」をすることだけだ。

 

それ以外の何も、僕たちには決められない。

何一つ分からない、無数の選択が目の前に現れたなら、 僕たちは、その中から、「悔いのない選択」するしかない。

理論や予測、そういったものを持ち出しても、結局のところ、その選択が正しいのかは分からない。

なら、僕たちは僕たちなりに、悔いのない選択を選ぶように努力しようじゃないか。

正しいか、正しくないかではなく、 後悔しない方を選ぼうじゃないか。

もちろん、その選択肢が本当に後悔しない選択肢かどうかは分からない。

でも、僕たちはこれまでに「正しい」と思う選択肢を選んで「後悔」してきたんじゃないだろうか。

飛躍した言い方をすれば、あまりにそれはおこがましく、奢った行為なのかもしれない。

「正しい」かどうかを僕たちが判断することなど、できないのだ。

でも、「後悔しない」かどうかを判断することならできる。

 

僕たちが悔いている過去の選択の数々は、コインを投げて表裏を当てるような、それくらい、どちらでも良いような選択なのかもしれない。

どちらを選んでも、確率は50%。

半分は幸せで、半分は不幸。

もしくは、両方とも幸せか、それとも...。

 

僕たちには分からない。

誰にも分からない。

これから先、僕たちはいくつもの選択を迫られるだろう。

でも、分からない。

だから、せいぜい、僕らは未来の僕らが過去の選択に縛られないように、 「悔いのない選択」をしようじゃないか。